
CoCを“TRPG”と呼ぶな?界隈で起きている違和感の正体
目次
XなどのSNSを眺めていると、「TRPGでこんなことがあった」「TRPGで悩んでいる」といった趣旨のポストを目にする機会は少なくありません。セッション中のトラブル、他プレイヤーとのすれ違い、卓の空気感にまつわる話題など、どれもTRPGを遊ぶ人にとって身近な内容です。ところが、少しやり取りを追ってみると、その話題が実はクトゥルフ神話TRPGの出来事である、というケースが少なくありません。
もちろん、クトゥルフ神話TRPGはTRPGという大きなジャンルに含まれる作品です。そのため「TRPGの話」と表現すること自体は間違いではありません。しかし、語られている内容が特定のシステム文化や慣習に強く依拠している場合、それをTRPG全体の話として受け取った人とのあいだに、わずかな認識のズレが生まれることがあります。そしてときに、そのズレは「それはTRPGではなく、クトゥルフ神話TRPGの話ではないか」という違和感や反発となって表面化します。なぜこのような現象が起きているのでしょうか。これは単なる言葉の問題なのでしょうか。それとも、現在のTRPG界隈が置かれている状況を映し出す一つの兆候なのでしょうか。
そこで、この小さな摩擦の背景を整理しながら、いまのTRPG文化の現在地を考えていきます。
TRPGとクトゥルフ神話TRPGの関係
まず確認しておきたいのは、用語としての整理です。TRPG(テーブルトークRPG)はジャンル名であり、複数人で役割を演じながら物語を進めていくゲームの総称です。その中には多様なシステムやスタイルが存在します。その一つが、クトゥルフ神話TRPGです。クトゥルフ神話TRPGはTRPGに含まれる代表的な作品の一つであり、日本国内では特に大きなプレイヤー人口を持つタイトルです。したがって、「クトゥルフ神話TRPGはTRPGである」という点に疑いはありません。
ただし、「TRPG=クトゥルフ神話TRPG」ではありません。TRPGという言葉は本来、ファンタジー冒険ものから戦術重視のゲーム、物語主導型、シミュレーション寄りの作品までを含む広い概念です。そのため、特定タイトルの文化や慣習を前提とした話題が、あたかもTRPG全体の一般論のように語られた場合、そこにわずかな違和感が生まれることがあります。この違和感の背景には、現在のプレイヤー人口や情報発信の構造も関わっています。
なぜ今、この現象が起きているのか
このズレが目立つようになった背景には、日本におけるプレイヤー人口の偏りがあります。現在、国内で最も遊ばれているTRPGの一つがクトゥルフ神話TRPGであることは、体感としても統計的にも否定しがたいところでしょう。特にSNSや動画配信文化との親和性は高く、リプレイ文化、シナリオ頒布、オンラインセッションの普及などを通じて、可視化される情報量が非常に多くなっています。その結果、「TRPGの話題」として流通している情報の相当部分が、実質的にはクトゥルフ神話TRPGの文脈に依拠している、という状況が生まれています。
これは異常なことではありません。歴史を振り返れば、特定のタイトルがジャンル全体の顔のように扱われる時期はこれまでも存在しました。たとえば長らくダンジョンズ&ドラゴンズがTRPGの代名詞のように語られてきましたし、ソード・ワールドなど時代ごとに中心的なタイトルは移り変わってきました。
問題が生じるとすれば、それは主流の存在そのものではなく、「主流の文脈が標準である」と無意識に前提されるときです。クトゥルフ神話TRPG特有のセッション進行、キーパー文化、シナリオ消費の形態、オンライン卓の慣習などが、あたかもTRPG一般の常識であるかのように受け取られた場合、別の系譜で遊んできた層とのあいだに認識の差が生まれます。
ここで表面化するのが、「それはTRPGの話ではなく、クトゥルフ神話TRPGの話ではないか」という違和感です。
「それはTRPGではない」という違和感の正体
「それはTRPGではなく、クトゥルフ神話TRPGの話ではないか」という反応は、単なる言葉尻の指摘ではありません。その背景には、TRPGというジャンルが本来持っている多様性への意識があります。TRPGには、戦術性を重視するゲームもあれば、物語体験を前面に出すものもあります。シナリオ主導型もあれば、ランダム生成やシミュレーション性を楽しむ設計もあります。たとえば、戦術的戦闘やキャラクター成長を中心に据えた系譜の代表格としてはダンジョンズ&ドラゴンズが挙げられますし、同じTRPGという枠の中でも、遊びの重心は大きく異なります。そうした幅広い前提を持っている層からすると、特定システムの慣習や文化を前提にした話題が「TRPGでは普通」「TRPGでは常識」として語られることに、引っかかりを覚えるのは自然なことです。それは自分たちの遊び方が否定されたというよりも、「ジャンル全体が一つの色に塗られていく」感覚に近いのかもしれません。
一方で、現在TRPGに触れている多くのプレイヤーにとって、最初の入口がクトゥルフ神話TRPGであるケースも少なくありません。その場合、自分が体験してきた文化が「TRPGの標準」であると感じるのもまた自然なことです。そこに悪意があるわけではありません。つまり、この摩擦は善悪の問題ではなく、文脈の違いから生じるすれ違いです。世代や入口の違いによって、見ている「TRPGの風景」が異なっているにすぎません。
では、この状況に対して、私たちは棲み分けを選ぶべきなのでしょうか。それとも別の道があるのでしょうか。
棲み分けか、多様性か
こうした状況に対して、「それぞれの文化圏で棲み分ければよい」という考え方もあります。クトゥルフ神話TRPGはクトゥルフ神話TRPGの文脈で語り、その他のTRPGはそれぞれの界隈で語ればよい、という発想です。一見すると平和的な解決策に思えます。しかし、棲み分けは同時に、交流の減少や視野の固定化を招く可能性もあります。情報が循環しなくなれば、新しいプレイヤーが別のスタイルに触れる機会は減り、小さな文化圏から静かに縮小していくこともあり得ます。
TRPGというジャンルの魅力は、本来その多様性にあります。戦術重視も、物語重視も、短編消費型も、長期キャンペーンも、すべてが同じ枠組みの中に共存してきました。その幅広さこそが、この遊びを長く支えてきた土台です。だからこそ重要なのは、排除でも訂正でもなく、「文脈を一言添えること」なのかもしれません。「COCの話ですが」と前置きするだけで、不要な摩擦はかなり和らぎますし、読み手も自分の経験と照らし合わせやすくなります。
そしてもう一つ大切なのは、無理に状況を変えようとしないことです。主流は時代とともに移り変わります。あるタイトルがジャンルの顔になる時期もあれば、別の作品が注目を集める時期もあります。その揺れ自体は、文化が生きている証でもあります。
多様性を維持する最も穏やかな方法は、おそらく声高に正しさを主張することではなく、それぞれが自分の好きな遊びを続けることです。そのうえで、互いの文脈を少しだけ意識する。それだけで、TRPGという大きな器は、十分に豊かなままでいられるはずです。
まとめ
「それはTRPGではなく、クトゥルフ神話TRPGの話ではないか」という違和感は、ジャンルの衰退を示すものではありません。むしろ、特定の作品が大きな存在感を持つほどに成長している証でもあります。クトゥルフ神話TRPGが現在の主流の一角を占めていることは事実でしょう。しかし、TRPGという言葉が本来指しているのは、それだけではありません。戦術を楽しむ遊びも、長期キャンペーンも、物語主導のセッションも、実験的な小規模システムも、すべてがその中に含まれています。
大切なのは、「どちらが正しいか」を決めることではなく、「自分がどの文脈で語っているのか」をほんの少しだけ意識することです。その一言があるだけで、必要のない摩擦は避けられますし、多様な遊び方が同じ言葉の下で共存しやすくなります。棲み分けによって静かに分断されていくのではなく、違いを理解したうえで同じジャンル名を共有していきましょう。主流が何であれ、自分の好きな遊びを続けながら、ときどき他の文脈にも目を向けてみましょう。TRPGという大きな器を、少しだけ広いままにしておきましょう。
























